やっぱりこの石をやるのを渋っているのだ。そんなに効き目のある石なのだろうか?
「うぅん、わしゃあ、織物を一枚持つとるんじゃが、うぅん、伝統的なもんじゃが、その薬と交換してもらえんか。うぅん、それでどうしようかと考えとる」
そう言って、またうぅんと唸った。そしてひとしきり唸ってから、つと立ち上がり、
「織物を取りに行って来る」
と言い残して、トットットと山の方へ消えて行った。
年寄りが持ってきた織物は、確かに伝統的な草木染めの織物で、儀式の時に男性が腰に縛って使用するものだったが、それを手に入れたいという気が私には起こらなかった。しかし、年寄りにとっては二十分あまり、いやもしかしたら私たちがこの島にやって来たのを知ってからかも知れないが、ずっと真剣に薬との交換を思い悩ませる程の貴重な物だったのである。
この伝統的な草木染めの織物は、ヌサテンガラ諸島を歩いているとよく見かけるが、最近は経済活動にのって、染めに化学染料を使っているものが多く、図案や織りも古いものに比べたら雑になってきている。
もともとこの手の織物には、悪霊から身を護るといった宗教的意味合いがあると聞く。染料は赤黄青の三色をもとに使い、図案もその家に代々伝えられていある。
年寄りはクリスチャンに改宗したからといっても、生まれてからこのかた神々だの悪霊だのと言って生きてきたのだから、そう簡単に切り替えられなかったのではあるまいか。頭では必要ないものと理解していても、心のどこかで、自分を護り続けてくれた織物にまつわる、古い原始宗教に対するこだわりを捨てきれないでいた。だから、うぅんうぅんと唸っていたのだろう。
私は快く年寄りの交換条件を呑んだ。
すると、今度は腹のあたりで手繰っているサロンのひだから、獣の牙で作った指輪だの海藻で作った腕輪、それに貝で作ったベルトなどを取り出して披露し始めた。
商売である。とたんに、順子の目が変わった。
「あぁら、これすごいじゃない。これ、いいわよ。わたしにぴったり。ほら、見て」
順子は勝手にベルトを腰に回して有頂天になっている。もう自分の物だと決め込んでいるようだった。
「で、いくら?ブラパ?」
値段の交渉まで始めた。
順子に煽られまくっている年寄りは、窪んだ眼の上で伸びききっている白い眉毛を斜めにして、
「値段はわからん。うぅん、わしゃあ、作るのが上手いだけじゃ」
それから私に向かって、
「奥さんが髪にさしとる櫛、ちいと見せてくれんかの?わしにも作れるんじゃねいかの」
私がプラスチックの櫛を外して見せると、
「うぅん、これなら作れる。来年来るまでに作っといてやる」
「ねえ、ねえ、これいくらなの?ブラパなの?」
順子は値段をきいてもはっきりしない年寄りをせっついている。
それでも年寄りは、値段は奥さんに任せますで、とぼやかしてしまう。
私も順子も、それがどのくらいの値段でやり取りされているものなのか見当がつかない。困り果てて、チィチィに耳を貸してもらい、相談した。
商談は一発で成立した。ベルト1本、300円ほど。もう一本あるからというので私
も一つ貰った。
商売が終ってしまうと、年寄りは、
「これ、奥さんの旦那に差し上げます」と、獣の牙を細工して作ったという指輪を私の手に握らせた。ベルトを安く貰っているので、ただで頂くのは気が引ける。チィチィに相談して心ばかりの礼をした。
商売の後、ゴザの回りにいる島の人達と私達の距離が近づいた気がした。向こうから喋りかけてくるようになったのだから、かなりの進歩と言えるだろう。パグルもそう感じたらしく、
「奥さん、来年は楽だよ」
と耳打ちした。

また退屈な時間がやって来た。
朝から何も食べていなかった。
気を紛らわす事がなくなると、寝るしかない。パグルやチィチィはイスラム教徒なので断食の経験があるから空腹をさほど苦痛とは感じていないかもしれない。しかし、私と順子はにはつらいものがあった。ただ寝るしかなかった。
小一時間、暑さでふうふう言いながらゴロゴロしていた。
パジョンソンの助手がすっ飛んできた。
マンディ出来る井戸を見つけてきたというのだ。
さっそく、シャンプー、石鹸、それに着替えを持ってまず第一弾として女三人が井戸に向かった。
熱い!ゴザから出ると、ゴム草履を履いていても足の裏が火傷しそうに熱い。目玉焼きが出来るのではないかと思えるほどの熱さだ。
しかし、心は弾んでいた。
ところが、しばらくして、ふと振り返って唖然とした。ゴザの回りにいた男たちが、
まるでアヒルの行列のように長い縦列をなして私達の後についていたいたのである。
何たる無礼であろうか。怒りが悶々と湧き上がり、私は地団駄を踏んで大声で怒鳴り散らした。
「駄目!来たら駄目!見たら駄目!」
「駄目!来たら駄目!あっちへ行って!」
チィチィも目を剥いて怒鳴った。そして更に大声で罵声を浴びせた。
「田舎者はこれだからやんなっちゃうんだよ。ジロジロ見て。トイレはないし、風呂もない!それに食べる物までない!生焼けの魚喰って、砂喰って寝るだけ!」
男たちはヘラヘラ笑いながら一旦立ち止まって、やがて列を崩して帰って行った。
チィチィも良く言ってくれるな。彼らを田舎者だなどと。私にしてみたらサウ島もライジュア島も都会と田舎に区別出来るほど違わないのに。
私は内心可笑しくてたまらなかった。
井戸というか泉というか、マンディ(水浴)の出来る場所は海岸から15分ほど歩いた畑の横にあった。古いものらしく、周りの石には名前と年号が刻まれてあった。恐らくこの泉を発見した人の名前であろう。
水はきれいだった。
椰子の葉っぱを扇形にした入れ物に紐が付いている。それを、斜めに水を突き刺すように落とし、うまい具合に水の中に沈め、そのまま引き上げさえすれば水が汲めるのである。
水は冷たくて気持ちがよかった。いっその事裸になってしまおうかとも思ったのだが、またあの連中が覗きに来ているかも知れないので、服を着たまま体と服に何度も石鹸を付けて洗った。ついでに下着まで洗濯で来た。頭も洗った。
水が有難かった。私達は心ゆくまでのんびりと垢を落としていた。
その内あんまり長く水を浴びていたので、私と順子はトイレに行きたくなった。
その辺りはダコールといわれるランプの油が採れる木が植えられている。木は乾いた土
塊の上に人の胸辺りまでの高さに育っていた。
屈んでしまえば見えないからと、順子と少し離れて私は用を足し始めた。
と、カサカサ、カサカサ、と人が歩いている音がした。
「また、連中か」
私は慌てて用を足すと、棒立ちになって音のする方角を睨んだ。
連中が来たらこっぴどく怒鳴ってやるつもりだった。
次にカサカサ、ドッドドッド、と音がした。タゴールの木々の合間に、白いパンツを
おろしたまま、浮き腰になって音のする方へ首を長くしている順子が見えた。
見ては悪いと思い、慌てて目を逸らすと、またカサカサ、ドッドッ、と音がした。
ただ事ではない。目を戻すと、順子が酷く興奮して、足で蹴散らしたり土の塊りを投げている。パンツは下したままである。
「大丈夫?」
私は順子から目を逸らして叫んだ。
「大丈夫じゃないわよ!」
「連中いるの?」
おっかなびっくり、私が訊いた。
「やだぁ、もう、こらっ、シッシッ、あっちへ行け!」
「いるの?」
「豚よぉ、黒豚が来てんのよぉ。シッシッ、逃げないのよぉ」
「えっ?」
私は足下にあった土塊を無我夢中で黒豚がいると思われる方角へ投げつけた。咄嗟に順子の為ではなく、自分の方に来られては嫌だと思ったからである。やがて、ビィービィー泣きながら逃げて行く黒豚の後恰好が見えた。
豚が行ってしまうと、私は腹の皮がよじれるほど笑いころげた。
意気地が無いのに、島の人が覗きに来たと勘違いしていきり立ち、それでいて咄嗟にに出た行動は自分の為だったのだから、人間なんてこんなものかと可笑しかった。それに何と言っても、豚に襲われている最中の順子の恰好が愉快だった。もう二度とあんな格好は見られないと思うと、なお更可笑しさが込み上げてくるのである。
「もう、やんなっちゃうよ。いくら足で蹴とばしたって、土投げたって、逃げないんだもの。焦ったわ」
豚は順子の排泄物を嗅ぎつけてやって来たのだ。その事をぼかしたいが為に順子は口をとがらせながらいつまでもブツブツ言っていた。
その日の午後もパジョンソンは現れなかった。
しかたなく私達は空腹に耐えながらサロンにくるまって、また丸太のように並んで夜を明かすことになった。

(パジオンソンと教会。協会の鐘は日本軍の砲弾)
次の日の昼近く、島の人達が海岸に下りて来た。
訊くと、今日船が出るというからそれに乗ってサウ島まで行くというのだ。
変ではないか。その人は船が出るというけれど、船はパジョンソンしか持っていない筈だ。そのパジョンソンの船は、私がチャーターしている。一体どうなっているのだろう。
私は
「パジョンソンの船ですか?」
と訊いてみた。すると、
「そう、サウ島へ行くんだ。玉子でも食わねいか?」
小さなゆで玉子をふたつ差し出して、その人はニコニコしていた。
やがて、鶏を抱えた女やら袋を背負った男、頭からサロンを被った老人などが浜辺に集まってきた。こうなると、船が出るのは確実だ。彼らは何時、パジョンソンから船の出る日時を訊いたのだろう。誰かがわざわざパジョンソンの家まで出掛けて行って、本人から直接訊いたのだろうか。もし彼らが私達と一緒に乗るのであれば、チャーター代は安くなって当然だ。まあ、安くならないにしても、両方からまともに料金をとるとしたらおもしろくない。それに、そうするのであれば、前もってそれなりの説明がパジョンソンからあっていいのではないか。
私は日本式の理屈を、栄養状態の悪い頭の中で並べたてていた。
そうこうしている内に、パジョンソンがさっぱりとした顔で姿を見せた。
「いやあ、どうも、どうも。間もなく船が出るから。待ったかい?いやあ、どうも」
そんなパジョンソンの言い訳を聞いても、パグルもチィチィも何も言わないのである。しかし私には、腹を立てていても怒りを露にしないチィチィやパグル、そしてオクタの気持ちが良く理解出来ていた。
狭い地域社会で生きる術は、表面的な衝突を避けることなのである。それをしてしまったら暮らし難くなるのは目に見えている。だから黙っているのだ。私の育った生活環境も同じようなものだった。しかし、私はそれが出来ない異端児だった。物事をはっきり言い過ぎて、しばしば摩擦を起こしてきた。
「パジョンソン、私、ずっとずっとずうっと待っていたんです。食べる物も無い砂の上で。空気食べて。でも、パジョンソンは来ない。もう、私、今日のクパン行きの飛行機には乗れません。昔話は採集出来ないし・・・若い奥さんが可愛いからって、約束を破って貰っちゃ困ります」
私は相手に一言も喋る余地を与えず、そこまでまくしたてて、一息ついた。
「ん、まあ、悪かった」
「私は船をチャーターしているんです。それなのに何故ほかの人が乗るんですか?乗ってもいいですよ。でも、みんなからもお金取ったんでしょう?」
「ん、まあ、奴さん達乗せてくれって言うもんだから。ん、まあ、そんなとこだ。船はすぐ出るから」
上手くあしらわれた感じだった。しかし、本当に呆れかえったのはそれからだった。
全員が乗船し終わったのを見定めると、パジョンソンは悠々と斧を振り上げたのである。
一体どうしたのか、理解できなかった。ただただ、驚いた。
それが、それから小一時間かけて船の後部にあるモーターを取り替えるのだと知った時、私はこの男に、何かものを云う気力が失せていた。
暑いのに、誰1人文句を言う者はいなかった。まるでそうして待つ事が、人生の修行のように、じっと海面を見据えたまま出発を待っていた。
船が出発出来たのは昼過ぎであった。

出発してから5時間もたてば、辺りはすっかり闇に変わる。風はあまりなかったが、うねりが幾分大きくなった。夜の海はどうにも薄気味悪い。見えない闇は不安である。仰ぐと、星が大きく光っていた。それを見て、クティタで見たあの漆黒の闇と天上でひしめき合う星の群れを思い起こしていた。
壮大で美しく透明だった。そこには、闇の中で天上を仰いでいる自分が、ひとつの微生物でしかなかった。しかし、何かに包まれている幸せ感があった。私はあの時、あらゆる宗教を超えた大きく偉大なるものの存在を全身で感じていた。
やっとサウ島に戻れたのは、夜の9時近くだった。
ファイサルやパグルの奥さん、それに宿屋の旦那やおかみさんも、熱いコーヒーで暖かく迎えてくれた。コーヒーをすすりながら私は、ほっと安心できる場所がここにあると思った。そして、この島のパグル、チィチィ、オクタ、ファイサル、パラド、それにパグルの奥さんや宿屋の旦那とおかみさんに対して、1年前とは違った親しみを抱いている自分がいる事に気づいていた。無論、パジョンソンにもである。
